100人商売記(#販売 #商売 #売上)

100人の市場論:パラダイムシフト
地球上の人間の総数は、82億人とされています。
82億というと多い数字なので、ここでは100人と仮定しましょう。
人間は営みとして、商売、経済活動という形態があるようです。
100人の人間は、この経済活動に日々切磋しています。
もし、この地球上に「100人」しか人間がいないと仮定したら、私たちの社会や経済、そして「商売」という営みはどのように映るのでしょうか。
経済活動の本質、そして私たちが日々直面している「競争」の正体を、この100人のミニマルな社会モデルを通じて深く考察していきます。
ちょっとその様子を覗いてみましょう。
経済活動の本質と富の独占が生む心理的摩擦
人間社会の基盤をなす「商売」という形態には、必ず「売上」や「利益」という成果の指標が伴います。
そして現代の社会構成において、この成果の数値が多い者ほど上位の人間となりやすく、権力や名声が集まる仕組みになっています。
ここに「A」、「B」、「C」、という3つの会社、そしてそれぞれに商品が存在しているとします。
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「A」100人の客がいた、10という売上があった
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「B」は0です。
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「C」は0です。
| 会社 | 客数 | 売上 |
|---|---|---|
| A | 100 | 10 |
| B | 0 | 0 |
| C | 0 | 0 |
初期状態の市場では、100人の客全員が「A」のもとに集まっていました。
その結果、「A」には「10」という圧倒的な売上が発生しています。
「A」は非常に高い人気を誇り、人々が群がって賑わいを見せています。
一方で、「B」や「C」という会社も存在し、それぞれ独自の素晴らしい商品を用意していましたが、そこには1人として客がおらず、売上は完全にゼロでした。
「A」は市場のすべてを独り占めできており、これ以上ない幸福と優越感、そして達成感を感じていることでしょう。
しかし、これは社会全体の安定を意味しません。
逆に「B」や「C」の立場から見れば、この状況は極めて不服であり、理不尽極まりないものです。
同じように知恵を絞り、商品を提供しているにもかかわらず、結果は無であり、社会的な存在価値すら否定されているように思えるからです。
こうした過度な格差は、やがて「A」に対する強烈な嫉妬や妬みを生み出し、変に屈折した報復の感情へと発展していく可能性があります。
最悪の場合、「A」という存在そのものを社会から抹消してしまおう」という過激な破壊衝動すら引き起こしかねません。
持たざる者が持つ者を激しく憎むという構図は、人間心理の必然であり、独占がもたらす致命的な社会リスクそのものです。
100の分散
では、こうした衝突や憎悪を避けるために、富や客を社会的に分散させるとどうなるでしょうか。
ここで大前提となるのは、人間の総数は「100人」と決まっており、この枠組みを外部から増やすことはできないという点です。
この絶対的な制約の中で、市場が次のように分散したと仮定します。
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「A」20人の客となりました。2という売上があります。
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「B」50の客がつきました。5という売上があります。
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「C」30の客がつきました。3という売上があります。
| 会社 | 客数 | 売上 |
|---|---|---|
| A | 20 | 2 |
| B | 50 | 5 |
| C | 30 | 3 |
市場の変化により、「A」は20人の客となり、売上は「2」に減少しました。
一方で、「B」には50人の客がつき、売上「5」を獲得。
さらに「C」には30人の客がつき、売上「3」を得ることができました。
この再配分の結果、「B」と「C」は新たに客がつき、念願の売上数字を得ることができました。
彼らは絶望の淵から救われ、社会的な不満は一時的に解消されたように見えます。
しかしその一方で、かつて栄華を極めた「A」は客が激減し、売上も「10」から「2」へと大きく減少してしまいました。
今度は「A」が不満や喪失感を抱く番になります。
私たちが暮らす現代社会には、無数の会社や多様な商品が溢れています。
毎日のように新しいサービスが立ち上がり、画期的なイノベーションが叫ばれていますが、
その実態は、この「100人」という限られたパイを全員で奪い合っているだけに過ぎないのではないでしょうか。
「A」「B」「C」、「D」、「E」、「F」、、
どれだけ魅力的な商品を増やしても、それを購入し、消費できる人間の数には最初から「100人」という厳格な制限が存在します。
商品の数が増えれば増えるほど、全体の100は単純に割り算されていきます。
商品が2個になれば100から50に、5個になれば20に、さらに増えて100個になれば1人あたり1個、それを超えれば1以下の小数点という形で、商品それぞれに配られる人数は確実に減っていくことになります。
私たちがどれだけ経済の規模を拡大しようとしても、
商売の相手は「人間」しか存在しないのです。
サバンナに生きるライオンたちにカップラーメンを売り込もうとしても、
彼らには必要のないものであり、人間の市場を肩代わりしてくれるわけではありません。
商売は、人間の総数という絶対的な壁に常に突き当たっています。

可処分時間
この「人間の総数による制限」という概念は、
エンターテインメント業界やゲーム業界で頻繁に議論される、「可処分時間」の制約と全く同じ構造を持っています。
可処分時間とは、人間が睡眠や仕事、食事などの生活必須時間を除いた上で、自らの意志で自由に使える時間のことを指します。
1日は誰にとっても平等に「24時間」しかありません。
この24時間という枠組みは、動かすことのできない制限です。
ユーザーが手持ちのゲームタイトルをどれだけ増やしたところで、彼らが消費できる時間は1日の枠を超えることはできません。
タイトル数が増えれば増えるほど、それぞれのゲームに当てられる時間は細分化され、減少していきます。
例えば、手元に4つの魅力的なゲームがあれば、
それぞれに「6時間」「6時間」「6時間」「6時間」と均等に時間を割り振るのが限界です。
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「aa」 -6時間
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「bb」 -6時間
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「cc」 -6時間
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「dd」 -6時間
開発者がどれほどの情熱と巨費を投じてゲームを作ったとしても、他におもしろいタイトルがあれば、ユーザーの時間は容赦なく奪い取られます。
むしろ、手持ちのゲームタイトルがひとつだけであれば、
ユーザーはその可処分時間のすべて、
すなわち「24時間」をそのひとつのタイトルだけに捧げることが可能になります。
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「ee」 -24時間
特定のゲームタイトル「ee」に24時間をすべて注ぎ込むような、圧倒的なエンゲージメントは、
選択肢がひとつだからこそ成立します。
実際の統計データを見ても、コンテンツの供給量が増加しているにもかかわらず、人間のゲームプレイ時間やメディア消費時間は、一定の基準に達してからは横ばい、あるいは減少傾向にあります。
これは人間が「時間の限界」に達したことを証明しています。
ゲームにおける絶対的な制限が1日の「24時間」であるならば、
商売における絶対的な制限は「100人」という人間の総数そのものなのです。
私たちは、増やすことのできない資源を巡って、不毛な食い合いを続けていると言わざるを得ません。

総数は100:
無限の成長という幻想と存在しない数字の不正
人間の総数は、100なのです。
多くの経済学者や企業経営者は「市場の持続的な成長」を掲げ、売上の倍増や市場の拡大を計画します。
しかし、総数が100人である社会において、次のような状況を作り出すことは論理的に不可能です。
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「aa」 80人の客がついた。売上8となりました。
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「bb」 80人の客がついた。売上8となりました。
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「cc」 80人の客がついた。売上8となりました。
| 会社 | 客数 | 売上 |
|---|---|---|
| A | 80 | 8 |
| B | 80 | 8 |
| C | 80 | 8 |
すなわち、「A」に80人の客がつき売上8となり、同時に「B」にも80人の客がつき売上8となり、さらに「C」にも80人の客がつき売上8となるような世界です。
これらを単純に足し合わせると、客の総数は240人となり、売上の総計は24に達します。
しかし、世界の現実として人間の総数は100人しかいないのです。
この「240人」という数字は、現実に存在しない幻の人間や、実体のない売上を不正に水増ししているか、あるいは過剰な借金や架空の需要によって未来の数字を不当に前借りしていることに他なりません。
現在の資本主義経済がしばしば陥るバブルや金融危機は、まさにこの「存在しない140人」を存在するものとして扱おうとした歪みから生じています。
どれほど見栄えの良い成長戦略を描こうとも、100人という上限がある以上、企業同士が競合すればするほど、それぞれの取り分である客や売上は細分化され、すり減っていく一方です。
競争は全体の富を増やすのではなく、個々のリソースを消耗させ、社会全体を疲弊させる結果を招きます。
奪い合いの果てにあるのは、誰も十分な利益を得られず、誰もが明日の転落を恐れるという、過酷で殺伐とした相互不信の社会に他なりません。
制限を無視した成長論は、ただの数字のトリックであり、まやかしなのです。
人間の総数は、100なのです。
どうしても100という制限があるのだから、取り合いしてもそれぞれの客や売上は減るだけです。
「統合体Z」への収束と平和的共存のシミュレーション
ならば、私たちはこの不毛な取り合いを終わらせるために、全く異なるアプローチを選択するべきではないでしょうか。
「A」「B」「C」合わせて、会社の合併、
ひとつの商品、「Z」としましょう。
「A」「B」「C」という別個の組織としていがみ合い、互いのパイを削り落とすのをやめ、それらをすべて合わせてひとつの究極的な商品、あるいはひとつの社会インフラとしての、「Z」に統合してしまえばいいのです。
このとき、会社という組織そのものも合併し、ひとつの一体化された存在へと昇華します。
この新しい選択肢において、統合された「Z」には100人の客が最初からすべてつき、売上「10」を確実に達成します。
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「Z」 100人の客がついた。売上10となりました。
| 会社 | 客数 | 売上 |
|---|---|---|
| Z | 100 | 10 |
この状態は、「A」「B」「C」などと分かたれていた過去の混沌とした状態とは決定的に異なります。
そして同時に、初期に見た「A」による独り占め状態とも根本的に性質が異なります。
「A」の独占は、背後に「B」や「C」という排除された敗者が存在し、彼らの怨嗟や復讐心を生み出す構造になっていました。
しかし、この「Z」はすべての要素が最初から溶け合って、ひとつになった統合体です。
そこには排除された者も、敗北に涙する者も存在しません。
元々別々だった「A」「B」「C」の知恵とリソースが、この「Z」の中に等しく内包されているからです。
私のいた境遇は、かつての「B」「C」のように、0とか少ない側の環境でした。
かといって、私たちの会社や商品が「A」に劣っているとも思いません。
100人全員が初めから集まっている「Z」の世界では、売上が「増えた」「減った」と一喜一憂し、明日の競争に怯えるような杞憂は完全に消滅します。
市場のパイは100%完全に満たされており、それ以上の無駄な割り算も発生しません。
商品の多様性を闇雲に追求し、パイを細分化して共倒れになるのではなく、限られた人間の数、限られた時間という制約を素直に受け入れ、調和と統合を目指すこと。
これこそが、終わりのない取り合いのサイクルから人類が脱却し、真の安定と平和に到達するための唯一の道筋なのかもしれません。

「Z」の世界線
このように、
不毛な消耗戦を終わらせる究極の解決策として提示されたのが、すべての会社を合併させ、ひとつの社会インフラとしての存在へと昇華させる統合体「Z」の構想です。
しかし、ここで重要な誤解を解いておかねばなりません。
すべての会社や商品が「Z」という、ひとつの枠組みに統合されるからといって、人間の生き方や選択肢までもがすべて同じになり、画一化されたディストピア(暗黒世界)になるわけでは決してありません。
「Z」が実現する世界線とは、人々の多様な「個性」や「好み」を完璧に尊重したうえで、
尚且つ、
100という市場の「公平感」を完全に保つことができる、極めて理にかなった理想の世界構成です。
例えば、お菓子の市場で考えてみましょう。
「Z」というひとつの統合組織が誕生したからといって、地球上のお菓子が「たった1種類のチョコレート」だけになってしまうわけではありません。
統合体「Z」の傘下において、かつて「A」「B」「C」が持っていた最高の技術やこだわりが結集され、
・「Z」が作る洗練されたチョコレートが数種類、
・「Z」が作るバラエティ豊かなチップスが数種類、などという形で市場に並ぶことになります。
エンターテインメントの象徴であるゲームの世界でも同様です。
・「Z」の作る壮大なRPG、
・「Z」の作る爽快なアクションゲーム、
・「Z」の作る手軽で奥深いパズルゲームなど、
プレイヤーの多様な嗜好に応える選択肢は豊かに保たれ続けます。
人々それぞれの個性は尊重したうえで、尚且つ100という公平感も保てる理想が現実になる世界構成ではないですか。
この構造の美しさは、消費者は自らの個性に合わせた選択を自由に楽しめる一方で、
供給側(作る側)には、「無駄なパイの奪い合い」や「理不尽な格差」が一切発生しない点にあります。
どのゲームをプレイしても、どのチョコレートを選んでも、それらはすべて「Z」という、ひとつの大きな共同体の成果となり、
100人は常に「Z」であり、
全体の価値を享受し、支える「Z」の客100人ということになります。
かつて「B」や「C」のように、優れた品質を持ちながらも構造上の理由で「0」の環境に甘んじていた才能ある人々も、「Z」という統合体の中では、その個性を遺憾なく発揮して社会に貢献することができます。
そこには、他者を蹴落とすための広告費の無駄遣いも、他社の台頭を恐れる過度なストレスもありません。
市場のパイは100%完全に満たされており、増えた減ったと杞憂することもなくなります。
100人全員で営む、「Z」
それは個人の多様な選択の自由を保証しながら、社会全体の連帯と100%の公平性を担保する、人類が目指すべき最も洗練された経済の最終形態(グランドデザイン)なのです。